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PART 2. 日本の<孤独>から見る観想教育の展望
西平直
Tadashi Nishihira
上智大学グリーフケア研究室教授
Phd, Institute of Grief care, Sofia University
講演概要
SEE ラーニングは「〈わたし〉を感じる」ことから始まる。では、コンパッションを願う教育が、なぜ「〈わたし〉の身体感覚」から開始されるのか。その問題を「わざの伝承」をめぐる知恵から考える。コンパッションの育成は「わざの伝承」に似ている。どちらも子どもの内側から自発的に育つことが重要である。そしてどちらも「〈からだ〉の感覚」が大切になる。「〈からだ〉の感覚」を耕しておく」ことが必要になる。では「〈からだ〉の感覚を耕す」とはどういうことか。
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〈わたし〉を感じる。自分の〈からだ〉に生じている感覚をそのまま素直に(正直に・ストレートに)味わう。その難しさに気付く。
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身体感覚をつかむ。〈わざ〉につながる運動感覚を感じる。動かすのではない。まして自分の身体を対象(object)にして観察するのもない。そうではなくて、例えば、動き始める際に、自分のからだの内側に生じていることを、味わう。あるいは、能動的に動き始める前に、既に動いている〈からだ〉の感覚(運動感覚・キネステーゼ)を感じる。そうした〈からだ〉の感覚を耕しておかないと、いずれ、「コツをつかむ」ことができない。そしてコンパッションも、本当の意味では、育たない。
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この「〈からだ〉の感覚」は個人の「内」に留まらない。外側ともつながっている。しかし外側を客観的に観察するのではない。逆に、内側を主観的に感じるだけでもない。〈からだ〉の感覚は、内と外を共に含んだ「場の全体」とつながっている。〈わたし〉をその内に含んだ「存在磁場」と響き合っている。
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さて、そうした感覚を日本語はどう語ってきたか。二つの言葉を見る。ひとつは「無心」。目的も意図もなく、欲から離れて、我を中心にしない。negative capabilityとも近い。もうひとつは「無常観」。とりわけ「仕方がない」という言葉に注目する。この日常語は多様な意味を持ち、その曖昧さが、複雑に屈折した思いをそのままそっと、包み込む。「場の全体」をやわらかく包み込む。
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最後に、わざを伝える「指導者」の問題を見る。例えば、スポーツコーチの困難、道場における師匠の困難。指導者が自らの「〈からだ〉の感覚」を疎かにするとき、子どもたちの視点が見えなくなる。子どもたちの「内側に自発的に生じてくること」と自らの「〈からだ〉の感覚」を響き合わせることができなくなってしまう。
そうした「わざの伝承」の知恵から、コンパッションの育成を考える。同時に、実はコンパッションが、わざの伝承の基盤にあることを確認したい。